よくある質問(FAQ)
- 千葉氏一族について教えてください
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中世における千葉氏は一族を厳密に区別していたようである。これは、当時の武士の慣習に基づくものと思われる。
当時の武士は初めて主君に拝謁する時、まず、一族の名前を書いた名簿を差し出すのが礼儀となっていた。
千葉氏の場合も初めて頼朝と拝謁し、主従関係を結んだ時、常胤は一族の名前を列記した名簿を出したものと思われる。
その内容は不明であるが、『源平闘諍録』によると嫡子の胤正を始め師常、胤重(胤盛の名代ヵ)、胤信、胤通、胤頼の六人の子及び孫の常秀、能光、更に千葉館に残った成胤の孫まで書かれていたと思われる。 つまり、この時点の千葉氏一族は常胤の子や孫から構成される武士団であったことになる。 後に、この一族から多くの支族が出るが、この支族や末流なども一族の中に含めていいと思われる。 なお、千葉氏の場合、相馬師常のように相馬氏の養子として出された人物も一族に含まれていたようである。
ここで、千葉氏の一族の特徴を整理する。
① 名前に「胤」の一字を使っている。これは、常胤以後の一族の特徴で、嫡子は原則として「〇胤」とし、庶子や一族は「胤〇」としている。 しかし、千葉氏は家臣にも胤の字を使うことを許可しているが、これは一族には含めていないようである
② 家紋に「月と星の紋」や「諸星の紋」を使っている。中世における月星紋には「三日月の十曜紋」、三日月の九曜紋、三日月の十曜紋などがある。 これらの月と星の紋は嫡家の家紋として使われた。 また、諸星の紋は、庶子家が使っていた紋で、この中には満月の十一曜紋、同十曜紋、同九曜紋、同八曜紋、同七曜紋、同六曜紋などがある。
③ 妙見菩薩を守護神としている。千葉氏は新たに移住し、館や城を建てるときには千葉妙見宮から妙見菩薩を勧請し、その館や城の近くに祀っている。
千葉氏はこの三つの要件を満たしているものを一族と考えていたようである。 なお、現在、千葉氏一族の城館を見てみると館や城の内外には妙見社ではなく、八幡神社、諏訪神社、熊野神社、日吉神社などが祀られている場合があるが、これらの神社は、明治時代以前は妙見社であった可能性がある。 - 千葉氏の先祖を教えてください。
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千葉氏の先祖をたどると桓武天皇まで行き着きます。
この帝の曾孫であった高望王は寛平元年(八八九)、臣下に下り、平姓を賜り、更に今の県知事にあたる上総介に任じられて上総介として関東に下向しました。
皇孫であった高望が、関東に下向したのは、国司には中央の官人には原則として認められていない「職分田」や労働力としての「事力」を与えられた事。 また、国内の空閑地を耕して私営田を獲得する事ができた事。 更に、元来、赤字補填として配分された「公廨稲」(くげとう) などの分配を受ける事によって莫大な利益が得られたからと言われています。
また、関東の国司の職を望んだのは、この地方に下れば皇孫として尊ばれたからでした。
なお、上総国は天長三年(八二六)に常陸国、上野国と並んで親王任国と定められたため次官に相当する介が事実上の長官でした
さて、上総に赴任した高望は、任期が終わった後もそのまま、関東にとどまり、新たな耕田の獲得と関東地方に古くから勢力を持っていた在地の豪族と婚姻関係を持つ事によって勢力を伸ばしました。 この婚姻形態では婿は婚家に通い、生まれた子は婚家で育てられ、夫の姓を名乗りましたが、高望やその子孫の場合も、これらの例と同様、婚姻関係によって生まれた子は婚家で育ち、父の姓を名乗りました。 こうして、高望の子や孫は上総国、相模国、武蔵国、下総国、常陸国などに広く分布することになったのです。
これを関東平氏と呼ばれています。さて、高望には国香、良持、良兼、など多くの子供がありましたが、その末子とされたのが千葉氏の始祖とされた良文であつたのです。 良文は 『源平闘諍録』によりますと「十二の末子ばっし体岡の五郎」とざれていますが、十三世紀の中頃に成立した『千葉系図』の写しである『徳島本千葉系図』では「高望十二の男。村岡余五郎(十五郎)」とされており、高望の末子であり、十五男であったものと考えられています。
- なぜ千葉という地名になったのか教えてください。
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千葉という地名を考える前に、まず、地名のおこりについて考えてみよう。
地名には大きく分けて自然地名と文化地名の二つに分かれるのですが、自然地名として有名なものに江戸があります。 日本の首都である東京は江戸時代までは江戸と呼ばれていました。この江戸という地名は、大きな川(江)の入り口(戸)という自然条件から付いた地名です。 自然地名はこの他、大川、小川、江川、水上、上滝、須賀、笹川などは川と関係の深い地名と考えられます。また、大野、小野、原などの地名は「原」(※)から付いた地名です。
なお、文化地名の中には、その地を支配した有力者の字(あざな)が地名となったものがあります。 例えば相馬市や南相馬市は千葉の一族、相馬氏が移り住んだことで付いた地名です。千葉県内では東庄町などがあります。 我々の住む千葉県や千葉市も関東の名族と言われた千葉氏の名を県名や市の名称としたものです。
さて、ここまで地名について勉強したところで、いよいよ千葉という地名の由来を考えてみましょう。千葉の地名の由来に関わる伝承としては
(1)羽衣伝説>
(2)霊石天降伝説
(3)草木の葉の繁茂する様を形容した
とする説 があります。 また、文献資料としては『万葉集』、『目本後紀』、『延喜式』、『倭名類聚抄』などがあります。
(1)『万葉集』に「知波」、「知婆」
(2)『目本後紀』には「千葉」
(3)『延喜式』に「千葉」
(4)『倭名類聚抄』に「千葉と書いて知波と訓じている」
なお、ここで千葉の地名が出てくる最も古い文献資料は万葉集の防人歌です。
千葉の野のこの児手柏の含まれど あやにかなしみ置きて誰が来ぬ(巻20-4387)太田部足人(おおたべたるひと)
この歌の意味は千葉の野のこのてがしわのように(あの子は)ういういしいが、なんとも痛々しくて、そのまま手も触れないで、野山を越えて(防人の任につくために)はるばるやって来たよ。
【研究者のコメント】 作者の太田部足人は、下総国千葉県の人で天平勝宝七歳(755)二月、防人として筑紫に派遣されました。 この歌の「ほほまれど」は「ふふまれど」の東国訛りです。「蕾のままであるが」という意味になります。故郷の千葉と娘を思っての歌です。
※原とは、草の生えている平らで広い土地、若しくは耕作されていない平地を指す言葉。